| 渋沢栄一(1840年〜1931年) 渋沢栄一は現在の深谷市の生まれで、富豪の家に生まれたこともあり、幼い頃から、現在でいう学習塾に通うといった恵まれた環境で育った。漢学や剣道など習い、10代半ばには父親が営んでいた藍の仕事を手伝い、父に代わって仕事を成功させた。20代半ばには一橋家に仕官し将軍慶喜に仕えた。その後勘定役としてパリに行き、経済学を学び商工業に役立てる。30代半ばには西洋で学んだ経済学を金融機関で発揮し、第一国立銀行の総監役となり、後に頭取に就任した。この偉業を見てもおわかりのように渋沢栄一は埼玉に生まれ日本の銀行の創設者となる素晴らしい偉業を成し遂げ、埼玉においても、秩父セメント、秩父鉄道、武州銀行などに関係し、埼玉の企業にも多大な影響をおよぼしたのである。現在深谷市に渋沢栄一の生家を記念館とし、当時を偲ばせている。
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今回は日本解剖学の創始者である埼玉生まれのこの人を紹介いたします。
田口和美は医師の長男として現在の北川辺町に生まれた。幼い頃より勉学に励み10代半ばには江戸で蘭学医に師事した。20代半ばには佐野で開業し、蘭学医としてその名をとどろかせることになる。その後、明治に入り解剖学に取り組むようになり研究に励むが、その当時は人体の入手が困難で、困り果てていたところ刑場より罪人の死体を手に入れることができ、専門的な研究ができるようになった。それからというものは、来る日も来る日も解剖の研究に没頭し、解剖学の権威としての基礎を築いていった。やがて、東京医学校の教授となり小金井良精、森鴎外、北里柴三郎など、日本医学界を代表する面々を教え子に持ち、日本医学界初の医学博士となった。その後日本解剖学会、日本連合医学会を設立し初代の代表となる。現在同校の構内には田口和美の銅像が建てられその偉業をたたえている。
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今回は埼玉の学校体育の父野口源三郎氏を紹介いたします。
野口源三郎氏は大里郡八基村丸橋栄三郎の長男として生を受け、その後岡部村の野口八十郎の養子となった。明治38年埼玉師範学校に入学し、剣道、水泳、テニスと幅広いスポーツをこなし特に剣道は4段の腕前であった。明治44年には東京師範に入学後、嘉納治五郎に陸上競技で認められ、以後陸上競技で頭角を現し大正6年極東選手権大会で十種競技で優勝、その後の大会で棒高跳びの日本記録も樹立し大正13年のオリンピックパリ大会で日本選手団の監督を務め、昭和3年のオリンピックアムステルダム大会では陸上のヘッドコーチを務めた。このように野口源三郎は日本スポーツ界の立て役者として貢献した。その後学校体育に専念し昭和28年埼玉大学教育学部長となり埼玉県の学校体育に貢献し、その功績をたたえ昭和32年には氏を慕う人々により埼玉大学内に胸像が建てられ現在は埼玉県教育センター内でその勇姿を観ることができる。
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今回は秩父鉄道の創始者柿原万蔵氏を紹介いたします。
柿原万蔵氏は現在の秩父市で1860年に生を受け、4代目万蔵として家業である絹織物の販売業を営み、秩父絹織物を国内に広めようと製品の改良と統一を図り明治28年秩父絹織物同業組合を創設した。併せて織物業の資金集めのため西部商工銀行の創設に関わり重役に就任した。さらに、当時運行手段が乏しいのを受け秩父の産業界の発展のため現在の秩父鉄道を開設した。初代社長となった柿原万蔵氏は明治34年に熊谷=寄居間を開通させ営業を開始、明治36年には寄居=波久礼間を開通させた。その後は、2代目社長である柿原定吉が明治44年に波久礼=金崎間を、大正3年には秩父市にまで延長させのである。柿原万蔵氏は病を患い2代目社長にその職を譲り渡し、大正8年60歳にて永眠したが秩父鉄道の創始者として秩父の産業界に深く貢献し、その名は現在においても語り継がれている。
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今回は日本の製紙業界を担った大川平三郎氏を紹介いたします。
大川平三郎氏は1859年現在の坂戸市に生まれた。川越藩士の子供として生まれた平三郎は、13歳で上京し大学南校で学び、その後叔父に当たる渋沢栄一に頼んで王子製紙に入社した。入社後渡米し製紙のための技術を学び王子製紙でその技術を生かしたが、三井財閥の追い出しにあい退社した。その後大正3年には樺太製紙を創業し、後には富士製紙の代表にまでなった。日本の製紙王といわれた所以である。他にも80社以上の企業に携わり大正9年には埼玉の武州銀行で経営陣の一人として参加した。昭和3年には貴族院議員になり、埼玉の実業界のトップとして昭和11年77歳でこの世を去るまで埼玉の経済発展のために貢献した。
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